法科大学院の授業内容

 授業は、学生が学ぶべきことを既に知っていることが前提である。

 これはトートロジーである。既に知っていることならば学生は教師から学ぶ必要がないだろう。しかし、教員が学生にものを教えることはない。単に個別の問題を指摘して、解答を求め、正解・誤答に関わらず、

「そうですね~」と解説を棒読みするだけである。

これが3年間、のんべんだらりと続く。一切緊張感はない。機械的にプログラムを実行しているだけである。

 学生がテストに落ちても、それは「既に知っているべきことを知らないことが悪い」ことになるので、教師は一切責任を負わない。彼/女に羞恥心や気高さはない。

知識内容は予め知っていなければならず、教師はそれを私的に試すだけでなんら本試験に貢献せず、普遍的な知にもつながらないのだから、法科大学院の授業は完全に無意味だと考えてよい。

当初はアメリカの真似をしてソクラテスの弁論のように闊達で生き生きとした授業をしようという掛け声もあったが、一切そんなものはないし、やったとしても必ず失敗する。なぜなら、日本の法体系は専制政体(19世紀のプロイセン、ロシアに紀元前の漢帝国と8世紀の唐帝国の混ざった)のものであり、個人の自由と民主的な政治制度を基礎とするアメリカとは異なるからだ。

 

 これでは意味がないので、無内容な授業に対してどう対応すればいいかを書いておく。最も重要なのは哲学的な批判能力である。物事に対して直感的に正しいか正しくないかの判断を吟味する学問は哲学以外にない。法科大学院の学生・教員のほぼ全員に哲学的素養がない。従って、内容のない一時的な流行があたかも無びゅうの真理のように流通することがあり、それがあなたを戸惑わせるだろう。そのような迷信、言語的暴力から身をかわし、筋肉のしなやかさを保ってくれるのは哲学だけである。

 従って、法科大学院に入る前には哲学をある程度知っていて、あらゆる権威(判例)を疑う訓練が既になされていることが望ましい。

 

2)平たくいえば、法科大学院の授業には学生と教師のコミュニケーションが一切ない。教員がする一方的な主張を反駁することすら許されない、というか、発話することすら許されない。時代錯誤な権威主義フジツボのようにこびりついており、知的飛躍を求める人間は行ってはならない。