参加的民主主義、分析に対する直感の優位。ジェイムソンの批判とハロルド・ブルームの肯定。

哲学は文学と同じであり、発見的に機能し、読者を精神的な高みへ到達させる。カリスマを否定するのはナンセンス。

 

 社会改良主義国家社会主義と資本主義に同時に抵抗する。

 文化主義左翼は経済基盤の批判をせず、自尊心の防衛、嫌がらせ、相手にナメられること、「サディズム」の批判。

 

アメリカでは左翼的提案は現実に実行できる。デューイ。

ロックもヒップホップも私にとってどうしても聴きたい音楽、ではない。必要ないものにはつきあいたくない。世界一売れてるならなおさらだ。

金に困らずかっこうつけることもできるなら同情する必要も気を使う必要もない。

好きじゃないし、必要ないんだよ。

半導体を買いに石川町の後に秋葉原へ。炎天下の中、へとへとになる。汗が大量に出た。疲れる体になった。四十三歳だし当然だ。

買った半導体が適合するかどうかわからない。帰りにシャッツにより、勘違いする。

歩行者天国秋葉原は解放区の雰囲気がある。両足義足の米軍人がいたり、外国人が多い。ここでは排外主義はない。あるいは、経済的には妥協したのだから言語的には排外させろ、というのが支配階級の声なのか?とにかく疲れた。

杉本博司展覧会

恵比寿で開かれている杉本博司の展覧会へ行ってきた。

圧倒的なコレクションと批評的な散文詩が気がきいており、完全にやられた。

入り口からすぐの場所にある巨大な海ユリと三葉虫の化石に圧倒される。オープニングでこれを出されたら食いつくほかない。その他にも様々な年代の石器と古代の武器、隕石、古雑誌、古公共品と、小学生男子の思い描いた夢の秘密基地のようで心が踊る。

 

展示は杉本氏の収拾した男子児童の宝物に自作の写真と33通りの世界の滅亡=自分の死の姿を重ねて滅亡=死をゴージャスに弔うというもの。

とにかく収拾されたあらゆるコレクションに妥協がなく、羨望を覚える。お茶と菓子をもっていつまででも見ていたい。勿論、秘密基地の定番であるエロアイテムもある。ラブドールのアンジェちゃん、バイアグラの「箱」、両性具有の解剖図。

島田雅彦の『忘れられた帝国』を展示と写真で見せたらこうなるといったところ。

入り口付近の一番目につく場所に置かれた化石について「地球環境上の一瞬の事故で古代の生物がフリーズドライされて現在まで残された。それは写真と原理的に同じである。だから、古代の写真としてこれらを展示する」と杉本氏は説明する。なるほど、大した批評眼だ。この化石と隣にある石器、そして隕石の展示だけで入場料半分くらいの価値はある。

 

次に眼を引くのが金融資本主義の崩壊による世界経済破綻の展示。アートマーケットで突然アンディ・ウォーホルがゴミ同然になりブラックマンデーがやってくる。そんなことで世界が滅ぶわけがないのだが、それで世界が滅んだという設定。ウォーホルのキャンベルスープ缶ならぬ、ホンモノのキャンベル・スープ缶を陳列した木製の棚を据えつけたトタン壁の破れ目から「鎌とハンマー」の美しい刺繍の入ったレーニンの旗の裏側が見える。これ以上の皮肉はない。資本主義への最大の批判は社会主義

巻頭を飾るオープニングインスタレーション浅田彰の筆記による「理想主義者」の敗北の弁と太平洋艦隊を畳の上に展開したジオラマ(昨今流行りの艦隊コレクションのオリジン)、J-DAYの電報、アメリカ司令部による生殺与奪の権の命令と並んで掲げられていた「マルクスの肖像」がここでつながる。

資本主義の危機と崩壊を一番近くで観察しているのは美術家だということだろう。

 

展示はガラクタ、経済、政治、セックス、工学の5ブロックに分けられる。個人的な嗜好もあるが、やはりガラクタ、経済、セックスの三つが目を引く。工学が少し落ちるが、産業資本主義にとって経済と工学は一体であるから、ほぼ同じと見てもよい。政治だけがプレゼンスが低いと感じる。これは古典的なマルクス主義の経済決定論の視点で、経済とセックス、工学によって世界はコントロールできる、政治は最も下位のものだという哲学の反映。あの哲学にどれだけ衝撃を受けたか。同時に、「社会主義が死んだ」といわれた今日に堂々と古典的マルクス主義の理論に則った展示を集大成として行なう自信と胆力。「まいった」というほかない。

 

展示は二重の意味でコメディアンである加藤浩次氏の「コメディアン」の散文詩と杉本氏自身の作品「古代の海」の写真で終わる。こうして人類は生物種として滅亡した。その存在自身が滑稽な物語だった、として話は締めくくられる。

 

結局滅亡は来ないので、杉本氏の展示は「こうなったらいいな」という願望に他ならない。自殺の訓練といってよく、その意味で哲学的である。